【新作レビュー】『複製された男』ドゥニ・ヴィルヌーヴ

『複製された男』
(2013/カナダ・スペイン合作)

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ジェイク・ギレンホール、メラニー・ロラン、サラ・ガドン


感想:
自己同一性をテーマにして、既存のサスペンスとは異なるアプローチに挑んだ作品はジェームズ・マンゴールドの『“アイデンティティー”』以来であろうか。
もっとも、視覚的に多数の登場人物が絡み合っていた『“アイデンティティー”』とは異なり、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『複製された男』は同じ役者が演じる二人の男がスクリーンに映し出され、彼らは同一人物なのか赤の他人なのかで観客を惑わせる。

例えば所謂ドッペルゲンガー映画であれば、明らかに正常な主人公と、その前に現れる(同じ役者が演じる)明らかに異質なもうひとりの人物があって、何故そのような異質さが存在するのであるかを物語にするのであるが、これはそういうやり方を選ばない。どちらも正常であって、同時に異質であるという曖昧さを最後まで貫いている。
90年代後半に『渦』で頭角を現したヴィルヌーヴは、『灼熱の魂』でアカデミー賞の外国語映画賞候補に挙がり注目を集めると、『プリズナーズ』でハリウッドデビューを果たした。それからほとんど間をあけずに発表したのが『複製された男』であり、クレジットの豪華さとは裏腹に、自国カナダ資本のインディーズ映画として発表したのである。

もっとも、カナダ出身の映画作家といえば、ジェームズ・キャメロンを筆頭に英語圏出身者はハリウッドで多く活躍し、フランス語圏出身者はどちらかといえばヨーロッパ指向の作家性の強い傾向にある。
その中でフランス語圏出身のヴィルヌーヴは、ハリウッド的なスケール感こそ不足しているが、上質な物語の上にヨーロッパでもハリウッドでも作り得ない、異質なカナダブランドを確立している。まさに、デヴィッド・クローネンバーグの後継となりうる作家といっても過言ではないだろう。

しかしながら、『複製された男』を観ていると何とも言えない感覚に苛まれてしまう。単に難解な映画であるからではなく、複雑なテーマを複雑なまま描こうとしてしまっているせいなのかもしれない。
遅咲きの作家ジョゼ・サラマーゴの作品は、これが四作目の映画化であるが、どれも彼がノーベル文学賞を獲った後の二十一世紀に入ってから作られたものである。中でも世界的に認知されているのは、『シティ・オブ・ゴッド』のブラジル人監督フェルナンド・メイレレスが初めてアメリカに渡り撮ることとなった『ブラインドネス』一本のみで、残りの二本はポルトガル国内でひっそりと映画化されたのである。現代への批評精神を寓話的に表現する彼の作品は、文学としての密度が高く、映画出は表現しづらいのであろうか。
深すぎるテーマを追究する上で、観客の感覚を麻痺させ、混乱に陥れるだけの難解さを金揃え、さらに「映画」の形を保ち続けるのは容易なことではない。
この手の、「悪夢」を観ているような錯覚に陥らせる映画は、広く受け容れられ受け容れられることはないにしても、ある一定のカルト性は得られる。現に、そのスペシャリストであるデヴィッド・リンチがいる以上、確実に需要はあるのだ。しかし、その「悪夢映画」を完璧に構成する手腕が、現在の映画界ではリンチ以外に存在しないのではないだろうか。むしろ、それにヴィルヌーヴ自身が誰よりも気付いているのではないだろうか、というぐらい、この映画からはデヴィッド・リンチの世界を踏襲する、それどころか奪い取ろうとしている意気込みを感じる。かえってそれが心地よくもあるのだ。
たとえば人物がベッドに寝そべっているショットひとつにしても、また主人公が混沌に陥るきっかけが「映画」であるという点においても、難解映画の代表格である『マルホランド・ドライブ』を想起してしまうのである。そして、物語への影響を深く感じさせないながらも、実はそれなりに意味がある(けど観客はそれを考えることを拒否したがる)異空間が相次いで登場する点も、リンチの諸作品を連想してしまうであろう。
既存の映画文法を超越した作家のみが許される種の映画に、果敢に挑むドゥニ・ヴィルヌーヴという四十代の作家は、まさにこの作品の映画化には適任であったと言えるのではないだろうか。いまこの物語を映画にすることは、リンチにもクローネンバーグにもできなかったであろう。『挑戦心」があってこそ実現できた90分の迷宮世界は、難攻不落の悪夢映画の世代交代を予感させる。

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