【新作レビュー】『エスケイプ・フロム・トゥモロー』ランディ・ムーア

『エスケイプ・フロム・トゥモロー』
(2013年/アメリカ)


監督:ランディ・ムーア
出演:ロイ・アブラムソン、エレナ・シューバー、ケイトリン・ロドリゲス


感想:
もう15年くらい前のことになるだろうか、アメリカでカルト的人気を誇るインディーズ作家のジョン・ウォーターズが、新作映画のプロモーションで来日した際に行ったティーチインで、こんな一幕があった。
「映画は情熱だけで撮れるか?」という問いかけに対し、「できる。フィルムを盗めばいい」とウォーターズは断言したのだ。
もっとも、時代は流れてフィルムを盗まなくても簡単に映画が撮れる時代になった。今では携帯電話で映画を撮る監督まで現れたのだから、それだけ映画を撮ることが容易にできる時代になったのだ。
その一方で、学生映画やインディーズ映画の多くは狭小な視野の中で、極めて内向的な作品を量産するばかりで、方や商業映画は大きくなればなるほど定型的で安直な娯楽しか生み出せなくなっている昨今で、フィルムを盗むこと以前に映画に対する情熱が失われているのではないかと危惧してしまうのである。
しかし、盗むものはフィルムでなくてよくなった現在、一眼レフカメラを持って、ランディ・ムーアという作家は世界的に有名なモチーフを盗んだのである。
「盗んだ」という表現はあまり相応しくないか。許容されるグレーゾーンをギリギリ超えるか超えないかのラインで撮影に臨み、そこで創り出された映像は、ムーアの無尽蔵な想像力に溢れた革新的な映画アイデアで溢れている。無許可での撮影などの問題が浮き彫りになるにもかかわらず映画を撮る選択をした、娯楽への情熱を誰もが感じずにはいられないエンターテインメントが、不思議と面白いのだから実に困ったものだ。

たとえば序盤から、往年のハリウッドのファミリー映画のような他の資源空間が漂うと、瞬く間にモノクロの映像がテクニカラーのように思えてくる。徐々に主人公に訪れる幻視の数々と、瞬く間にスクリーンをダークサイドに陥れるSF調の展開、突然幕が下ろされて「インターミッション」の文字が出現すると、もう我々は興奮してスクリーンに釘付けになるしかできない。
フランス人女性二人組と、電動車椅子に乗った男の異様さや、主人公の妻の神経質な振る舞い、主人公を含めてほとんどのキャラクターが明らかに神経を逆撫でしてくるというのは、いかにもアメリカインディーズ映画が踏襲してきた苦みを引き継いでいるのあって、そんな受け容れ難さも介在させる一方で、遊園地を舞台にしているという大前提を活かしきった楽しげな臨場感を維持し続けている。
誰もが一度は観たことのあるアトラクションを前にして、ほとんどが乗車中に観ることができる映像を中心に据えることで、映画を観ると同時にそのアトラクションを楽しんでいるような錯覚に陥る。たとえば同じように遊園地を舞台にした映画でいえば、エドウィン・S・ポーターの『Rube and Mandy at Coney Island』に匹敵するアトラクション紹介映画であるのだ。

この映画の「娯楽性」と「ミステリアスな不愉快さ」の介在を顕著にするのは映像ばかりではない。アベル・コルゼニオフスキの作曲するテーマ音楽が、何度も何度も劇中で流れ、耳にこびりついて離れない。それがまた巧いことに50年代のメロドラマを想起させんばかりの雄大なメロディーに溢れていて、聴き方ひとつで、それがとてつもなく楽しげなメロディにも、悲しげなメロディにも様変わりする二面性を持っているのである。
あえてモノクロームで撮られたことは、おそらくパーク内で撮られた実景映像と、それに合成するショットとの境界線をできるだけ曖昧にするための策略であると考えられるが、運の良いことにその選択がこの映画のミステリーを増長させる。

何故だろうか、今までこのような奇怪な映画にこれほどの哀愁を感じさせる映画はなかったはずだ。『エスケイプ・フロム・トゥモロー』という題を直訳すると、「明日からの逃亡」ということか。
冒頭で会社を解雇される主人公は、翌日から無職になる。その明日(=トゥモロー)から逃れるために、現実とは乖離した空間でさらなる乖離を求めて、完全なる闇の中へと堕ちていってしまうのだから、何とも痛快で映画的なプロットである。
この、実に興味深い新時代のエンターテインメントには、映画の可能性が溢れている。
野心的な作り手の、危険を省みない挑戦の果てにスクリーンに映し出されるエピローグのショットの数々は、胸が熱くなり、思わず今すぐにでも京葉線に乗って舞浜に行きたくなることであろう。




7月19日TOHOシネマズ日劇ほかにてロードショー
http://escapefromtomorrow.jp

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