【新作レビュー6月号】ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『雪の轍』


『雪の轍』


<作品データ>
2014年/トルコ・フランス・ドイツ/196分/シネマスコープ

監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
出演:ハルク・ビルギネル、メリサ・ソゼン、デメット・アクバァ、ネジャット・イシレル



<感想>
ヌリ・ビルゲ・ジェイランは雪の作家である。
彼のデビュー短編の『まゆ』という17分の作品を観ると、最後の最後で窓越しに降る雪を観ることができる。それも、まるで雨のように窓に打ち付ける水分を含んだ何かが、雪であることを強調するかのように、やがてキャメラのフォーカスが、雪の積もった窓の外へと移動していくのである。
そして彼が初めて手がけた長編作品『カサバ』の冒頭シーン。
積もった雪が凍りつき、その上を子供たちがはしゃぎながら滑っている様を、固定されたキャメラから映したそのショットを過ぎると、終始夏の装いを描いた『五月の雲』を挟み、その5年後に作られた『冬の街』でようやく雪が降るのである。
そこで初めて、人物と雪が同じフレームの中で動くショットが出現することになる。


同時にジェイランは対話の作家でもある。
人物の会話を中心に物語を形成させていくのである。『カサバ』『五月の雲』と、木々の下で会話を重ねる人物の描写。『うつろいの季節』における監督自身と妻で演じる夫婦の破綻の道程。『昔々、アナトリアで』における刑事たちの会話の数々。
つまり彼の作品は、雪と人間の会話によって完成されるといっても過言ではない。
しかしながら、それでは不十分である。この二つの要素を満たした『うつろいの季節』が極めてパーソナルな作品であったが故に、他の作品群との隔たりが明確に生じてしまっている。


彼の作品にはもうひとつ、トルコという国、アナトリアで暮らす人間の悲哀というか人生観を投影されてはじめて完成するといっていいだろう。
初期三本はまさにそれが中心になっていただけに、サスペンス色の強い『スリー・モンキーズ』や、パーソナルな部分が目立つ『うつろいの季節』ではとても到達し得なかった。ようやくその境地に達することができたのは『昔々、アナトリアで』に他ならない。
しかしながら、カンヌでグランプリを得たその作品でも欠けていたことが、他ならぬ「雪」の存在なのである。


『冬の街』『昔々、アナトリアで』でのグランプリ受賞。『スリー・モンキーズ』での監督賞受賞に続き、ジェイランがようやくパルムドールに辿り着いた『雪の轍』は、カッパドキアの冬を捕らえ、そこで暮らす人々の群像と対話。そこにひたすらに雪が降り続くのである。
やっと、ヌリ・ビルゲ・ジェイランという監督の集大成を目の当たりにすることのできる映画が誕生したと同時に、それを200分に渡る長さで見せつけてくるのだから、もうお手上げとしか言いようがない。
カッパドキアに佇むホテルを経営する元舞台俳優の男と彼を取り巻く人物たちによって繰り広げられるこの映画には、これまでの諸作で積み上げてきた、ありとあらゆる要素が集約されているのである。

この映画を観ているときに、妙な既視感に苛まれたのはそのためばかりではない。
『冬の街』の劇中で、登場人物がリビングでアンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』を流す場面があったことを思い出した。ジェイランは(これはジェイランに限ったことではなく、現代の作家の多くが当然のようにそうであると思うが)タルコフスキーを好んでいる故に、この映画の一環とした寒々とした情景と、対話が行われる室内の仄暗さに、『サクリファイス』を思い出さざるを得なかったのである。


ヌリ・ビルゲ・ジェイランはいずれ、映画史に残る監督であるということは疑う余地がない。
もちろん、現代トルコ映画界にはジェイランに匹敵する才能が集結している。『コスモス』のレハ・エルデム、『そこに光を』のレイス・チェリッキ、そして日本で近年ロードショーされた唯一のトルコ映画であるユスフ三部作を手がけたセミフ・カプランオール。
これでか充実した作家が西アジアから現れてくるのは、まるで80年代から90年代にかけてのイラン映画の時代を想起させるものがある。
しかしながら、何故これほどまでに日本でトルコ映画が不遇な扱いを受けているのかは、極めて謎である。ジェイランも、デビュー長編から東京国際映画祭で上映され、世界中で絶賛を浴び、いつ日本でお披露目されるのかと多くの映画ファンが指をくわえて待ちわびていたわけで、日本公開が確実なものとなったのは昨年のカンヌ国際映画祭のパルムドールが発表された、まさにその瞬間であった。

しかしそこから1年以上経て、やっとロードショーされることになったわけで、その間に『スリー・モンキーズ』と『昔々、アナトリアで』はDVDがリリースされ、『昔々、アナトリアで』に至っては札幌のミニシアター蠍座で年末に1週間ほどロードショーされていたという奇跡まで起こってしまったのである。
初めて日本で紹介されてから17年。ようやく日本中がヌリ・ビルゲ・ジェイランを発見することになる。それだけ待っただけの価値があるのかと訊ねられたら、「ある」としか答えようがない。


【コラム特別篇】ヤン・ヴェルヘイエン『裁判の行方』を鑑賞して、考えたことを整理してみる。


※このコラムは本編の筋を最後まで解説しています。日本公開未定の作品ですが、ネタバレを避けたい方は読まないほうがいいです。




『裁判の行方』

<作品データ>

原題:Het Vonis (英題:The Verdict)
制作年:2013年
制作国:ベルギー
言語:オランダ語
上映時間:111分
フレーム:シネマスコープ


監督:ヤン・ヴェルヘイエン
出演:ケーン・デ・ボーウ、ヨハン・レイゼン、フィーラ・バーテンス、ヤッペ・クラース





この映画のまず大筋となる、事件の概要を刑法の例題っぽく説明すると、

Aはパーティーの帰り道、車で妻Bと娘Cと共にガソリンスタンドに立ち寄った。
Aが給油中、Bは道路の向かい側にある24時間営業の自動販売機スタンド(建物状になっており、一度店内に入ると外から中の様子を見ることができない)に立ち寄ると、店内が荒らされていることに気が付く。突然店内奥から現れたXに襲撃されたBは財布を強奪されかけるが、それを拒んだため、複数回殴打された出血多量及び、頭部を床にぶつけた衝撃により命を落とす。
Bがいつまで経っても車に戻ってこないことを不審に思ったAが同店舗に向かうと、入口でXに遭遇。店内で血を流して倒れているBを発見し、Xに掴みかかるが、逆にXにより暴行を加えられて昏睡状態に陥り、三週間後に目を覚ますことになる。
また、当時後部座席で眠っていたCは、Aが車を出たことに気が付き、Aを追いかける途中、横断しようとした道路でYの運転する車に跳ねられて即死。



まず問題になるのは、Xの罪責である。
ベルギーの刑法では、日本のそれと異なり、殺人罪にふたつの種類が存在している。

・謀殺……予め計画された殺害行為や、動機、方法などが極めて悪質で非難されるべきもの。
・故殺……一般的な殺害行為。突発的な行動によるもの。

日本の刑法では、第199条において刑罰が定められているが、慣例的に計画殺人のほうが突発的な殺人罪よりも罪が重くなる点で、このふたつの違いが生じているといえよう。

よって、この劇中において、Xの犯したBを殺める行為に計画性があったのか、と問われると、それは否定されるであろう。
Xの故意はあくまでも強盗にあったとみてとれる(具体的にそれは劇中で描かれていないが、人のいない場所を選んで強奪行為を行っている点から、そう考えることができる)。
そこに偶然Bが訪れたときに、殺意が発生していたとしても、それを証明することは非常に難しい。
強盗を行おうとした結果、それに失敗し、傷害の故意を持って複数回殴打し、結果として死に至らしめた。と考えるのが妥当なラインで、劇中でも触れられているが、強奪しようとした金品等を奪い去っていない点から、強盗致死は成立せずに、傷害致死が成立する可能性が高いのである。
当然ながら、刑罰の重さは殺人>強盗致死>傷害致死、であり、たしか劇中では5年程度の懲役と言われていただろうか。

加えて、Aに対する傷害罪は成立するとして、Cの事故死に対する因果関係はほとんど無いと言ってもよいだろう。
劇中で、AはCの事故に対してもXに対する怨恨を持つことになるが、それは単なる逆恨みにすぎず、映画中で全く登場することの無い、Cを跳ねた車を運転していたYに対して提起するべきであっただろう。



これを踏まえた上で、『裁判の行方』劇中の流れを整理して紐解いていこうと思います。

・逮捕されるX。しかし、検察側の手続き上のミスにより、捜査そのものが無効となり、Xは釈放される。
手続き上のミスによる凶悪犯の釈放は、ベルギーでは日常的に起こっており、社会問題とされている。劇中においても、この事件が極めて世間の注目の的となり、検察は世論からバッシングを受ける。
本作の主題は、10年以上前からベルギー国内で大きな問題とされている、この事案について、批判的な立場を貫くことであって、あくまで主人公の裁判というのはその副次的な役割を担っているにすぎないということである。



・納得のいかないAは、Xに対する復讐の方法を考え、不法な手段で銃を入手。Xの勤務先の前に数日間張り込んだ末、Xを射殺する。
8発の銃弾をXに向けて発射し、その内数発はXには命中せず、Xの背後の壁などを損傷するに至った。Xに命中した銃弾は、頰に1発、左肩に1発、腹部に2発であり、その腹部に命中した銃弾が致命傷となり、失血死したとされている。
しかし、至近距離から銃弾が放たれている描写、キャメラのアングルによって、倒れているXにさらに銃弾を浴びせているような描写が描かれており、強い怨恨を持って殺害行為に及んだと考えられる故、この行為それ自体は「謀殺」であると考えても間違いないだろう。


・Aは抵抗することなく、現場に駆けつけた警察により逮捕され、起訴される。
・Aの目的は、無罪を勝ち取り、司法を糾弾することである。
・例によって、Aは世論から英雄的な存在として扱われ、彼の裁判は注目の的となる。
劇中、法務省の関係者は「三権分立」を盾に、我関せずを貫こうとするが、マスコミからのバッシングに度々ボロを出したり、検察上層部に詰め寄ったりと、非常にわかりやすい描写を見せる。
あくまでも、本作の悪はAでもXでもなく、杜撰な司法制度である。



・裁判は、「Aが犯した罪が入念な計画によってもたらされた謀殺であり、極めて悪質であるが、被害者Xによって受けた精神的ダメージから、酌量されるべきであるが有罪である」とする検察側の論点と、「AはBCの死によって、社会的地位も幸せな家庭も失い、人格が変わってしまった。Xを殺したことはある種の心神喪失状態によって行ったことであり、無罪」とする弁護側の論点の争いである。

ベルギー刑法第71条で「Il n'y a pas d'infraction, lorsque l'accusé ou le prévenu était en état de démence au moment du fait, ou lorsqu'il a été contraint par une force à laquelle il n'a pu résister.」と定められている。要約すると、「心神喪失状態にあるときや、抵抗できない状態で強制されたときは違法にあたらない」といったところでしょうか(専門用語の訳は自信ないのですが。。。)
言うなれば、日本の刑法第39条1項と類似した規定があり、劇中で主人公Aは家族を殺されたショックから心神喪失状態にあったとして、無罪を勝ち取ろうとするわけです。劇中の字幕では「衝動的」という風に書かれておりましたが、衝動的に殺害行為を及ぶのは単なる故殺であるので、無罪になりようがありません。



・陪審評決の結果、彼は「無罪」を勝ち取る。しかしながら、彼は誰もいない家で、死んでしまった家族の思い出に浸りながら、これから先の人生を送らなければならない。

これに関しては、具体的に劇中には描かれません。
陪審評決が読み上げられていく途中から、音が途絶える演出で、傍聴席は歓喜に包まれ、主人公Aが涙を流す。次のシーンでAが家に帰ってくる描写があるからそう推察されるだけであり、もしかしたら有罪で軽い刑罰だった、と捉えることもできるかもしれません。ただ、ここでAが無罪にならなければ、この映画の要である、司法に対しての批判的構造は成立しないのです。

つまり、勘違いしないでいただきたいのが、日本のドラマとか、安直な法廷劇で描かれる感情論によって被告人である主人公Aが無罪になったということではない、ということです。
「奥さんと娘さんが殺されたから可哀想……」とか、「復讐のためなら仕方ないよね」などという馬鹿げた発想は、法廷には必要ないのです。
日本で近年、裁判員制度が導入されるようになって、実際のところ感情論で判決が下されるようなことはあまりないようですが、それでも映画で何てことなしに、切ない話が繰り広げられると、観客は被告人に同情してしまうきらいがあるようです。ましてや、それが陪審制の裁判であると、被告人が無罪になった理由が、「同情」であると勘違いする人も多々いますが、少なくとも本作はそういった理由で無罪になったわけではありません。
(筆者は鑑賞しながら、陪審評決が読み上げられるシーンで、ひたすら頭の中で、「有罪。ただし情状酌量で減刑される……」と唱えてましたが、普通に考えたらそれが無難かと思います。)
劇中で描かれている証拠量で、Aの心神喪失状態を証明することは難しいからです。


よって、映画中で突き詰めて描かれることは無いですが、「Aが無罪になった」=「司法制度のミスによって生まれた報復が認められた」ということになります。これは杜撰な司法制度の弱点を批判する大きな役割を果たすものであって、決して「報復が正しい」と言っているわけでは無いのです。報復行為が頻発すれば、当然のように治安が乱れる=治安を維持するためには、司法制度のミスをなくすことが大前提となる=だからきちんと仕事してくれよ。という意味合いでしょう。単純に言えば。

要するに、ここで映画の冒頭に出てくるカミュの言葉「正義など存在しない。あるのは限界だけだ」につながるかと。
本来の「正義」をもってすれば、Aは有罪になって然るべきです。ただ、その司法制度そのものに「正義」が喪われてしまっている現状においては、Aを有罪にすることなどはできない。ということでもあり、また、ラストシーンで家に帰ってベッドに横たわったAが、妻と娘の幻影を見ながら絶望のどん底に突き落とされることから、彼が背負う罰はただひとつ。終身刑よりも重い、「未来永劫つづく孤独」であるということが判るのである。



旧作レビュー第4回・人は死ぬと雲になると思ってた……。/アレックス・プロヤス『スピリッツ・オブ・ジ・エア』

『スピリッツ・オブ・ジ・エア』




<作品データ>
原題:Spirits of the Air, Gremlins of the Clouds
制作年:1988年
制作国:オーストラリア
アスペクト比:(スタンダードサイズVHSで鑑賞。オリジナルは不明)
カラー・白黒:カラー


<スタッフ>
監督:アレックス・プロヤス
脚本:アレックス・プロヤス
音楽:ピーター・ミラー
撮影:デヴィッド・ナウス


<キャスト>
マイケル・レイク
ザ・ノーム
ライズ・デイヴィス


<総評>
アレックス・プロヤスという作家が、どうも評価されづらい位置にいるのは、現時点での彼の最新作『ノウイング』のせいであろう。来年新作が発表されるとのことであるが、そこに至るまでもう7年の月日が流れているから、『ノウイング』で受けた酷評は相当なものであったと伺える。
それ以前の彼の作品といえば、それなりのヒットを飛ばした硬派な『アイ、ロボット』や、数年前に再評価された『ダークシティ』といったSF作家としてのイメージが根強いが、その間に撮っている『ガレージ・デイズ』のような青春映画を撮れるだけのポテンシャルがあることは周知されているはずだ。
もともとMVの監督として世に出た彼は、カットの遊び方と音の巧さが抜きん出たブロックバスター作家になれるはずだっただけに、近年の干された方は残念でならない。

そんな彼が発表した最初の長編映画がこの『スピリッツ・オブ・ジ・エア』である。
近年若い作家の奇抜な映画が評価される時代が再び訪れているだけに、再注目されるべきこの映画は、プロヤスが25歳で完成させた野心的な一本に違いない。奇しくも、80年代といえばフランスで同じぐらいの年代のアンファンテリブルたちが台頭した時代でもあって、オーストラリアから発信される20代作家の意欲は完全に影に隠れてしまっていた。

何もない砂漠の真ん中に、十字架を立て、外界から避けるように暮らす兄妹の前に、水も持たずに砂漠をさまよい歩く一人の男が現れるところからこの映画は始まる。
誰かに追われている男は颯爽とその場から去ろうとするが、それを脚の悪い兄が呼び止め、自分が制作している人力飛行機を作る手伝いをさせる。

一連のプロットは、一見すると青春浪漫を感じさせる筋立てのようにも思えるが、そこは若い作家としてのポテンシャルの顕示が現れ、終始奇妙な画面を見せ続ける。
オープニングクレジットに合わせて映し出される、何もない広野の画は、砂漠を写しているというより、映画のもうひとつの主人公である空が、画面の半分以上を占める。それでも、そこには安定して砂埃が駆け回り続けている。
さらにほとんどのカットでキャメラは登場人物よりもだいぶ下の方から、煽り気味で被写体を捕らえ続け、ここでもまた、空をフレームの中に収めようと躍起になっているのだ。
もっとも、砂漠の真ん中にある掘っ建て小屋のような舞台を無しにしてしまえば、背景には砂漠と空、あとは小高い丘が見える程度で何もない舞台設計。普通の高さでキャメラを構えたところで空が画面の半分を占めることは間違いないようなその中でさえ、プロヤスは上を向かせ続けた。

時折見せるクローズアップのショットは、下品さとそれに伴う不快さをあえて隠さない切り込みを見せるが、そんなカットさえも、一瞬で次のカットへと変わってしまう。全体的に決してカット数の多い作品ではないが、ロングで全景を捕らえるところ以外、とくに人物を映すカットに関しては奇怪なリズムを持って素早くカットが切り替わっていくのである。
極め付けはデイヴィス演じる妹の奇抜なファッションが、カットを追うごとにより奇抜さを増していく点である。彼女を始め、3人の登場人物全員が気が狂っているこの映画の中でも、彼女の狂い方が群を抜いて引き立たされている。広野の地味な色合いと、建物の暗さを跳ね返すような奇抜なカラーにあふれた衣装と、その周り一部の色彩の調整など、けっして完璧とは思えないカラー構成にさせることで、あえて画面の中で浮かせることに成功しているといえよう。
もちろん、用意されたカラーを超える美しさは、小屋の外での未明のショットの青さが最たるものである。深い青を帯びた空に、被写体としての小屋は影だけ残り、そこに人物が影だけで映る。最終的にプロヤスが撮りたかった画はこれだけだったのではないだろうかという疑問さえ感じてしまう。

筋立てはシンプルでありながら、見せ方の問題で随分と奇抜な映画に仕上がっている本作。正直言って、狂った兄妹と一人の男の三人の中で起こる物語だからこそ耐えうるが、これがもっと広いステージにあがってしまうと、決して観れたものにはならないであろう。90分少々の時間を、この砂漠の真ん中の一箇所だけで描くからこそに出来上がった物語は、何が起こっているのか観客に理解させないまま、クライマックスの飛行シーンで、何故それが発生するのかわからない高揚感に包まれて終わりを迎える。
現代のスラングを用いていえば、とても「中二病」的な作品である。もっとも、当時大量に作られた中で現在でも見ることのできるアート映画のほとんどは「中二病」のような映画なのであるが、そういうのもまた嫌いではない。堂々とカルト臭を全開にさせた佳作だ。