旧作レビュー第4回・人は死ぬと雲になると思ってた……。/アレックス・プロヤス『スピリッツ・オブ・ジ・エア』

『スピリッツ・オブ・ジ・エア』




<作品データ>
原題:Spirits of the Air, Gremlins of the Clouds
制作年:1988年
制作国:オーストラリア
アスペクト比:(スタンダードサイズVHSで鑑賞。オリジナルは不明)
カラー・白黒:カラー


<スタッフ>
監督:アレックス・プロヤス
脚本:アレックス・プロヤス
音楽:ピーター・ミラー
撮影:デヴィッド・ナウス


<キャスト>
マイケル・レイク
ザ・ノーム
ライズ・デイヴィス


<総評>
アレックス・プロヤスという作家が、どうも評価されづらい位置にいるのは、現時点での彼の最新作『ノウイング』のせいであろう。来年新作が発表されるとのことであるが、そこに至るまでもう7年の月日が流れているから、『ノウイング』で受けた酷評は相当なものであったと伺える。
それ以前の彼の作品といえば、それなりのヒットを飛ばした硬派な『アイ、ロボット』や、数年前に再評価された『ダークシティ』といったSF作家としてのイメージが根強いが、その間に撮っている『ガレージ・デイズ』のような青春映画を撮れるだけのポテンシャルがあることは周知されているはずだ。
もともとMVの監督として世に出た彼は、カットの遊び方と音の巧さが抜きん出たブロックバスター作家になれるはずだっただけに、近年の干された方は残念でならない。

そんな彼が発表した最初の長編映画がこの『スピリッツ・オブ・ジ・エア』である。
近年若い作家の奇抜な映画が評価される時代が再び訪れているだけに、再注目されるべきこの映画は、プロヤスが25歳で完成させた野心的な一本に違いない。奇しくも、80年代といえばフランスで同じぐらいの年代のアンファンテリブルたちが台頭した時代でもあって、オーストラリアから発信される20代作家の意欲は完全に影に隠れてしまっていた。

何もない砂漠の真ん中に、十字架を立て、外界から避けるように暮らす兄妹の前に、水も持たずに砂漠をさまよい歩く一人の男が現れるところからこの映画は始まる。
誰かに追われている男は颯爽とその場から去ろうとするが、それを脚の悪い兄が呼び止め、自分が制作している人力飛行機を作る手伝いをさせる。

一連のプロットは、一見すると青春浪漫を感じさせる筋立てのようにも思えるが、そこは若い作家としてのポテンシャルの顕示が現れ、終始奇妙な画面を見せ続ける。
オープニングクレジットに合わせて映し出される、何もない広野の画は、砂漠を写しているというより、映画のもうひとつの主人公である空が、画面の半分以上を占める。それでも、そこには安定して砂埃が駆け回り続けている。
さらにほとんどのカットでキャメラは登場人物よりもだいぶ下の方から、煽り気味で被写体を捕らえ続け、ここでもまた、空をフレームの中に収めようと躍起になっているのだ。
もっとも、砂漠の真ん中にある掘っ建て小屋のような舞台を無しにしてしまえば、背景には砂漠と空、あとは小高い丘が見える程度で何もない舞台設計。普通の高さでキャメラを構えたところで空が画面の半分を占めることは間違いないようなその中でさえ、プロヤスは上を向かせ続けた。

時折見せるクローズアップのショットは、下品さとそれに伴う不快さをあえて隠さない切り込みを見せるが、そんなカットさえも、一瞬で次のカットへと変わってしまう。全体的に決してカット数の多い作品ではないが、ロングで全景を捕らえるところ以外、とくに人物を映すカットに関しては奇怪なリズムを持って素早くカットが切り替わっていくのである。
極め付けはデイヴィス演じる妹の奇抜なファッションが、カットを追うごとにより奇抜さを増していく点である。彼女を始め、3人の登場人物全員が気が狂っているこの映画の中でも、彼女の狂い方が群を抜いて引き立たされている。広野の地味な色合いと、建物の暗さを跳ね返すような奇抜なカラーにあふれた衣装と、その周り一部の色彩の調整など、けっして完璧とは思えないカラー構成にさせることで、あえて画面の中で浮かせることに成功しているといえよう。
もちろん、用意されたカラーを超える美しさは、小屋の外での未明のショットの青さが最たるものである。深い青を帯びた空に、被写体としての小屋は影だけ残り、そこに人物が影だけで映る。最終的にプロヤスが撮りたかった画はこれだけだったのではないだろうかという疑問さえ感じてしまう。

筋立てはシンプルでありながら、見せ方の問題で随分と奇抜な映画に仕上がっている本作。正直言って、狂った兄妹と一人の男の三人の中で起こる物語だからこそ耐えうるが、これがもっと広いステージにあがってしまうと、決して観れたものにはならないであろう。90分少々の時間を、この砂漠の真ん中の一箇所だけで描くからこそに出来上がった物語は、何が起こっているのか観客に理解させないまま、クライマックスの飛行シーンで、何故それが発生するのかわからない高揚感に包まれて終わりを迎える。
現代のスラングを用いていえば、とても「中二病」的な作品である。もっとも、当時大量に作られた中で現在でも見ることのできるアート映画のほとんどは「中二病」のような映画なのであるが、そういうのもまた嫌いではない。堂々とカルト臭を全開にさせた佳作だ。


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