<作品データ>
2014年/ロシア/96分/シネマスコープ
監督:アレクサンドル・コット
出演:エレーナ・アン、ダニーラ・ラッソマーヒン、カリーム・パカチャーコフ
<感想>
映画は喋ることが必要なのか。
アラン・クロスランドの『ジャズ・シンガー』が「お楽しみはこれからだ」と発してから、80年以上の月日が流れたが、未だに多くの映画が適切な台詞を得ていないように感じる。
例えばそれが、御伽噺の世界であれば何らかの説明を観客は欲するであろうが、日常的な生活を切り取っただけの世界を与えられた時、どうしたって日常的に必要のあるダイアローグ以外は無駄な、それでいて異質なものとして感じてしまうのである。
もちろん、アザナヴィシウスの『アーティスト』のように、サイレント期を回顧するように台詞を排した映画もあれば、純然とサイレントを再現した作品もある。最近ではスラボシュピツキーの『ザ・トライブ』のような別の方法論を用いて観客にダイアローグを届けようとする映画も現れてくる中で、このアレクサンドル・コットが作り出した『草原の実験』は、そのどれにも当てはまらない。
あえて台詞を排したわけでも、登場人物が喋ることができないわけでもないのだ。この映画に映し出される空間に、ただダイアローグが必要でなかった、ただそれだけの極めて単純な理論である。
昨年この映画が日本で最初にお披露目された東京国際映画祭の公式プログラムに書かれた、コットのメッセージが極めて印象に残っている。「本当に近くにいる人とは、多くを語らずともコミュニケーションが取れる」「観客に自然の音に耳を傾けてほしい」そして、「最初にできた映画に言葉はありませんでした」。
この三つの言葉から判るように、ごく限られた人物の中で繰り広げられる物語には、ダイアローグ以外の表現の方法がきちんと存在しているわけで、あえて作り手がダイアローグだけに拘る必要もないのである。物語が観客に届くために必要なのは、ただひたすらに、映像として観ることができる情報であり、それを補うために音が付いてくるだけのことである。
その「映像として観ることができる情報」をコントロールする、構図の美学が徹底されつくされている『草原の実験』は、その内容の深層に込められた事柄を読み解く必要性もなく、ただ映画を観るという悦びに浸ることができる96分間であった。
オープニングのショットから、トラックの荷台に横たわる小太りの中年男性の俯瞰ショットで幕を開けると、次はトラックの表情を真正面から映し出す。この時点では左右に大きな空間が空いていて、これから始まる物語の舞台となる草原の雄大さを垣間見ることができないという焦らしを観客に与えると、エンジンを入れた途端に車の側面ショットに切り替わり、観客はスクリーン上の奥に延々と続く、何もない草原の広さを知ることになる。
さらには飛行機に男が乗り込み、空を飛んでいるショットを映したかと思うと、画面の手前で少女が綿を摘み始めて画面上の遠近感を明確に表示する。そのシークエンスには飛行機窓から見える円形の光だけに依ったショットを残すといった、映画的な遊びを存分に取り込んでいるのだから、もう何も言うことはない。
多用される俯瞰ショットも、くどさを感じさせることなく。それでいて、適切な距離を保った引きの画も、決して冗長さを感じさせることはない。それどころか、画面の左から馬がフレームインし、中央に残された少女をその背中に乗せて、画面の奥へと走り去っていくショットは、息を呑むほど完璧な構図であった。
映画の構造上の大きな転換期であった、トーキーの誕生を決して否定しているというわけではない。前述の通り、敢えてダイアローグを排除せずに、観客は今か今かと演者の口から発せられる声を求めてしまう。しかし聞こえてくるのはわずかな息づかいのみで、それにくわえて細かい足音のひとつひとつ、ナイフの刃の接触音や、水の音、風の音が、主張しすぎることなく、適切な音量で演者の動きを補っていくのだ。無駄なもの、ここでいうダイアローグ全般を排除する一方で、自然音と構図によって映画の構造上の歴史を全肯定しているのである。
そして我々は、主人公の少女を演じるエレーナ・アンの美しさの虜になるであろう。
三つ編みにした髪を解くショットで、髪の間から零れる夕陽の美しさは、あくまでもエレーナ・アンを引き立てるための背景としてしか存在しない。また、この10代半ばの少女が、厳つい鋏で自らの髪を切るシーンは、物語の結末と同じくらいの残酷さを持っているのである。
ひとつの家を中心に構築されていく物語と、一本の木が象徴的に映し出されるあたり、タルコフスキーの『サクリファイス』を想起させるものがある。そこにブレッソンの映画を思わせるような残酷さと、少女映画としての要素を加えているのだから、映画としての完成度は疑う余地もない。ほぼ、完璧な映画と言っても過言ではない。
映画は喋ることが必要なのか。
アラン・クロスランドの『ジャズ・シンガー』が「お楽しみはこれからだ」と発してから、80年以上の月日が流れたが、未だに多くの映画が適切な台詞を得ていないように感じる。
例えばそれが、御伽噺の世界であれば何らかの説明を観客は欲するであろうが、日常的な生活を切り取っただけの世界を与えられた時、どうしたって日常的に必要のあるダイアローグ以外は無駄な、それでいて異質なものとして感じてしまうのである。
もちろん、アザナヴィシウスの『アーティスト』のように、サイレント期を回顧するように台詞を排した映画もあれば、純然とサイレントを再現した作品もある。最近ではスラボシュピツキーの『ザ・トライブ』のような別の方法論を用いて観客にダイアローグを届けようとする映画も現れてくる中で、このアレクサンドル・コットが作り出した『草原の実験』は、そのどれにも当てはまらない。
あえて台詞を排したわけでも、登場人物が喋ることができないわけでもないのだ。この映画に映し出される空間に、ただダイアローグが必要でなかった、ただそれだけの極めて単純な理論である。
昨年この映画が日本で最初にお披露目された東京国際映画祭の公式プログラムに書かれた、コットのメッセージが極めて印象に残っている。「本当に近くにいる人とは、多くを語らずともコミュニケーションが取れる」「観客に自然の音に耳を傾けてほしい」そして、「最初にできた映画に言葉はありませんでした」。
この三つの言葉から判るように、ごく限られた人物の中で繰り広げられる物語には、ダイアローグ以外の表現の方法がきちんと存在しているわけで、あえて作り手がダイアローグだけに拘る必要もないのである。物語が観客に届くために必要なのは、ただひたすらに、映像として観ることができる情報であり、それを補うために音が付いてくるだけのことである。
その「映像として観ることができる情報」をコントロールする、構図の美学が徹底されつくされている『草原の実験』は、その内容の深層に込められた事柄を読み解く必要性もなく、ただ映画を観るという悦びに浸ることができる96分間であった。
オープニングのショットから、トラックの荷台に横たわる小太りの中年男性の俯瞰ショットで幕を開けると、次はトラックの表情を真正面から映し出す。この時点では左右に大きな空間が空いていて、これから始まる物語の舞台となる草原の雄大さを垣間見ることができないという焦らしを観客に与えると、エンジンを入れた途端に車の側面ショットに切り替わり、観客はスクリーン上の奥に延々と続く、何もない草原の広さを知ることになる。
さらには飛行機に男が乗り込み、空を飛んでいるショットを映したかと思うと、画面の手前で少女が綿を摘み始めて画面上の遠近感を明確に表示する。そのシークエンスには飛行機窓から見える円形の光だけに依ったショットを残すといった、映画的な遊びを存分に取り込んでいるのだから、もう何も言うことはない。
多用される俯瞰ショットも、くどさを感じさせることなく。それでいて、適切な距離を保った引きの画も、決して冗長さを感じさせることはない。それどころか、画面の左から馬がフレームインし、中央に残された少女をその背中に乗せて、画面の奥へと走り去っていくショットは、息を呑むほど完璧な構図であった。
映画の構造上の大きな転換期であった、トーキーの誕生を決して否定しているというわけではない。前述の通り、敢えてダイアローグを排除せずに、観客は今か今かと演者の口から発せられる声を求めてしまう。しかし聞こえてくるのはわずかな息づかいのみで、それにくわえて細かい足音のひとつひとつ、ナイフの刃の接触音や、水の音、風の音が、主張しすぎることなく、適切な音量で演者の動きを補っていくのだ。無駄なもの、ここでいうダイアローグ全般を排除する一方で、自然音と構図によって映画の構造上の歴史を全肯定しているのである。
そして我々は、主人公の少女を演じるエレーナ・アンの美しさの虜になるであろう。
三つ編みにした髪を解くショットで、髪の間から零れる夕陽の美しさは、あくまでもエレーナ・アンを引き立てるための背景としてしか存在しない。また、この10代半ばの少女が、厳つい鋏で自らの髪を切るシーンは、物語の結末と同じくらいの残酷さを持っているのである。
ひとつの家を中心に構築されていく物語と、一本の木が象徴的に映し出されるあたり、タルコフスキーの『サクリファイス』を想起させるものがある。そこにブレッソンの映画を思わせるような残酷さと、少女映画としての要素を加えているのだから、映画としての完成度は疑う余地もない。ほぼ、完璧な映画と言っても過言ではない。
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