<作品データ>
2015年/アメリカ/54分/アメリカンビスタ
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ジョニー・グリーンウッド、シャイ・ベン・ツール
<感想>
2015年2月の昼下がりから映画が始まる。祈りの時間が終わり、レコーディングが再開するとたちまち、民族楽器の軽快な音がこだまする。
輪になって座る男たちの中心に据えられたカメラが、ゆっくりとパンしていくとギターを弾くグリーンウッドの姿が映し出される。管弦楽器と、インドの打楽器のリズムが見事な調和を果たした途端、画面に現れるタイトルに、すでに6分の時が流れたなどと感じることもない。少なくとも、あと50分もしないうちに、この映画を観終えてしまうことの喪失感を、早くも感じてしまうのである。
このフィルムは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降のポール・トーマス・アンダーソン作品で音楽を手がけるレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドと、イスラエルのアーティスト、シャイ・ベン・ツールのレコーディング風景を追ったドキュメンタリーであり、舞台となるのはインド北西部に位置するジョードプルのメヘランガール城塞。
タイトルインの直後、空撮により全景が映し出されたと思いきや、たちまちその中へとキャメラは侵入していく。デジタル撮影の小回りを利かせたカメラワークで、頻繁にパン移動を行い、時折フォーカスが甘くなる。とはいえ、それに不愉快さを感じさせないのはドキュメンタリーだからというわけではない。室内から窓を抜けて鳥を追いかけ始める空撮や、フィクスされたキャメラで押さえられた街の景観とのバランスが確実に取られているからである。
ポール・トーマス・アンダーソンといえば、『ブギーナイツ』をはじめ、長尺なフィルモグラフィを生み出す作家の印象が強い。意外なことに(そのどれもが日本に運ばれてはいないのだけれど)彼のフィルモグラフィには多くの短編作品が存在している。しかしながら、今回のようなドキュメンタリーフィルムは初めてだそうだ。
劇映画とドキュメンタリーは本質的に演出の方法論が異なる。多くの場合ドキュメンタリーでは(その形態によっても差異はあるものの)脚本通りに進行させることができる前者とは異なり、予測不能の動きを的確に捉えていかなくてはならない。
もちろん、本作中にも予測不能であったに違いない動きが多数存在する。しかし、その予測不能の動きによって、映画としての面白みを与える奇跡を生み出すのである。
序盤の室内のシーンで、部屋に鳥が迷い込んでくるのを、マイクスタンドを使って追い出そうとする。鳥の動きはさすがのアンダーソンでも操ることはできないであろう。かと思えば、城塞の真上の空を鳥の群れが飛び交い、餌を与える短いショットにおける、鳥たちの動きは、その狙いを定めるのに果たしてどれほどの時間がかかったのであろうかと思うほどに理想的である。彼はもはや鳥までも操る能力を携えているのであろうか。
さらに、決めるショットは正確な構図で映し出すのである。女性コーラスのショットとそれに呼応するカットバック。城塞の真上から、鳥たちを映し出す俯瞰ショットの壮観さや、マーケットの猥雑な様相と、息を飲むようなショットを連続させた容赦のないモンタージュにひたすら打ちのめされていく。
インターネットでの映画配信サイトMUBIでプレミアリリースされた本作は、日本の映画興行の形態ではおそらくロードショーされることは難しいであろう。もっとも、映画祭などで今後上映される機会に恵まれるのであれば、それほどまでに幸運なことがあるだろうか。
パソコンの画面で観ていても、思わず涙がこぼれてしまう見事な構成に、劇場のサラウンドでこの音楽を全身に体感することができれば、まさに至福の時間が過ごせるものである。
2015年2月の昼下がりから映画が始まる。祈りの時間が終わり、レコーディングが再開するとたちまち、民族楽器の軽快な音がこだまする。
輪になって座る男たちの中心に据えられたカメラが、ゆっくりとパンしていくとギターを弾くグリーンウッドの姿が映し出される。管弦楽器と、インドの打楽器のリズムが見事な調和を果たした途端、画面に現れるタイトルに、すでに6分の時が流れたなどと感じることもない。少なくとも、あと50分もしないうちに、この映画を観終えてしまうことの喪失感を、早くも感じてしまうのである。
このフィルムは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降のポール・トーマス・アンダーソン作品で音楽を手がけるレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドと、イスラエルのアーティスト、シャイ・ベン・ツールのレコーディング風景を追ったドキュメンタリーであり、舞台となるのはインド北西部に位置するジョードプルのメヘランガール城塞。
タイトルインの直後、空撮により全景が映し出されたと思いきや、たちまちその中へとキャメラは侵入していく。デジタル撮影の小回りを利かせたカメラワークで、頻繁にパン移動を行い、時折フォーカスが甘くなる。とはいえ、それに不愉快さを感じさせないのはドキュメンタリーだからというわけではない。室内から窓を抜けて鳥を追いかけ始める空撮や、フィクスされたキャメラで押さえられた街の景観とのバランスが確実に取られているからである。
ポール・トーマス・アンダーソンといえば、『ブギーナイツ』をはじめ、長尺なフィルモグラフィを生み出す作家の印象が強い。意外なことに(そのどれもが日本に運ばれてはいないのだけれど)彼のフィルモグラフィには多くの短編作品が存在している。しかしながら、今回のようなドキュメンタリーフィルムは初めてだそうだ。
劇映画とドキュメンタリーは本質的に演出の方法論が異なる。多くの場合ドキュメンタリーでは(その形態によっても差異はあるものの)脚本通りに進行させることができる前者とは異なり、予測不能の動きを的確に捉えていかなくてはならない。
もちろん、本作中にも予測不能であったに違いない動きが多数存在する。しかし、その予測不能の動きによって、映画としての面白みを与える奇跡を生み出すのである。
序盤の室内のシーンで、部屋に鳥が迷い込んでくるのを、マイクスタンドを使って追い出そうとする。鳥の動きはさすがのアンダーソンでも操ることはできないであろう。かと思えば、城塞の真上の空を鳥の群れが飛び交い、餌を与える短いショットにおける、鳥たちの動きは、その狙いを定めるのに果たしてどれほどの時間がかかったのであろうかと思うほどに理想的である。彼はもはや鳥までも操る能力を携えているのであろうか。
さらに、決めるショットは正確な構図で映し出すのである。女性コーラスのショットとそれに呼応するカットバック。城塞の真上から、鳥たちを映し出す俯瞰ショットの壮観さや、マーケットの猥雑な様相と、息を飲むようなショットを連続させた容赦のないモンタージュにひたすら打ちのめされていく。
インターネットでの映画配信サイトMUBIでプレミアリリースされた本作は、日本の映画興行の形態ではおそらくロードショーされることは難しいであろう。もっとも、映画祭などで今後上映される機会に恵まれるのであれば、それほどまでに幸運なことがあるだろうか。
パソコンの画面で観ていても、思わず涙がこぼれてしまう見事な構成に、劇場のサラウンドでこの音楽を全身に体感することができれば、まさに至福の時間が過ごせるものである。
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